-56- 食べるということ。
【胃瘻(いろう)】
腹壁を切開して胃内に管を通し、食物や水分や医薬品を流入させ投与するための処置。最近では人工的水分栄養補給法と呼ばれる。
1日5600円の差額ベッド代のかかる眺望抜群のベッド。
正直、眺望はどうでもよい。5600円あったら毎日焼き肉が食える。
退院1日前、差額ベッドのかからない部屋に移動させてくれた。1日だけでも、ありがたい。
移動した先の部屋は、二人部屋。
お隣のベッドはやはりおじいさんだったが、前の4人部屋のときの陽気なおじいさんズとはどうも様子が違う。
おじいさんはごく最近手術をしたらしい。
奥さんとおぼしき人が面会時間の間ずっと付いていた。
夫婦の会話がカーテン越しに聞こえてくる。
おじいさんの、奥さんに対する当たりが強い。というか、明らかに喧嘩腰だ。
「うるせえよ、バカ!そんぐらい分かれよ、バカ野郎!」
「そんな風に大声で言わなくたって……」
「俺はそれどころじゃねえんだよ!」
明らかにおじいさんはイライラしていた。
普段からそんな感じなのかどうかはわからないけど、イライラしている理由は先生がベッドに来た時の会話でわかった。
胃瘻の手術をしたのだ。
期間限定なのか無期限なのかは定かでないけど、話の内容から、たぶん無期限だ。
僕はがんになって、正確には腸閉塞になって、生まれて初めて「何も食べられない、何も飲めない」ことを経験した。
生き物として、これほど辛いことがあろうか。
当然病院にいれば点滴で栄養は摂るので死ぬことはないけど、食べ物を食べられなくて餓死する苦しみとはどれ程のものか。その片鱗を味わった。
ただ、僕達は生き物といえど、人間だ。ただ栄養を摂ればいい植物とは違う。
僕が1か月半絶飲食だったとき、ひたすら料理の写真と動画を貪り見ていた時期があった。
食べられるようになったらコレ食べよう、アレ食べに行こう。それだけが心の支え。
胃瘻をお腹に取り付ける。
もう口から料理を食べることができない
料理を口から食べられないのは、何も食べられないのと同じくらい辛いだろう。意識が元気なら、なおさらだ。
奥さんだけでなく、看護師さんにもキツく当たるおじいさんの声は、少し涙声に聞こえてきた。
-55- 宝物。
病室は13階。
今回は無期限の絶飲食とかいう修行僧のような縛りはないので、売店に行っても、ショーウインドゥに張り付いてトランペットを眺める少年のような感じで食べ物を見なくてもいい。
早速1階の売店へ向かうためエレベーターへ。
エレベーター内は点滴棒を持った患者さんと、お見舞いの人が2人。
途中の階でエレベーターは止まり、扉が開く。
毛糸の帽子を被り入院着を着た小学校低学年ぐらいの男の子が、お母さんと乗ってきた。
そうか、小児病棟の階か。
僕はすぐに、手術室前で僕と同じように手術を待つ子供が、看護師さんと笑顔でじゃれていた光景を思い出した。
たぶんこの子も売店に行くのだろう。お母さんに何か買ってもらう約束でもしたのかな。
毛糸の帽子の下は、恐らく抗がん剤で抜けてしまっているのだろう。
すると不意に、男の子がお母さんの足に抱きついた。
「ママー」
僕は意識せず、涙が出ていた。
この子はこの歳で、どれだけ過酷な運命を背負っているのだろうか。
その運命を、この子はどれだけ理解しているのだろうか。
なぜ自分が入院しているのか。
なぜ自分は皆と一緒に学校に通えないのか。
なぜ自分はパパとママと家で過ごすことができないのか。
まだ0歳の長男の顔が浮かぶ。
可愛い。世界で一番可愛い宝物。
このお母さんにとっても、この子は世界で一番可愛い宝物だろう。
その宝物が……………
涙が止まらなかったが、多分他の人には気づかれてはいなかったと思う。
階数を示す数字は、じれったく小さくなっていった。
-54- あれ?
「はい、じゃあここに仰向けに寝てくださいね」
目線の先にはドラマでよく見る例の丸い大きな照明。
埋め込むのは右胸の鎖骨の下辺り。
「ちょっと麻酔が痛くてズーンと来るかも知れませんが、がんばってくださいね」
そんなフォローのない言葉にももう慣れっこ。
局所麻酔は、例の硬膜外麻酔の時にやったことがある。
局所麻酔の何がアレって、痛い感覚以外は全部感覚があるってこと。あと、本当に麻酔が効いてるか自分でわからなくて、切られるまでドキドキしなきゃならないこと。
切られ具合は硬膜外麻酔のときとは比べ物にならない。まあ、あのときも相当長時間プスプスとんとんされたけども。
顔だけ布を掛けられる。
プスっ。ずーーーん。
おお。それなりに痛い。うん、麻酔効いてる気がする。
でもほんとに効いてるのかな?切っても痛くない?
「はい、じゃあ始めますねー」
ほんとに切っても大丈夫だよね?
ねえ、大丈夫だよね?
あ、大丈夫だ。
周りの話し声と、すぐ耳元で器具がカチャカチャいってるのがしっかり聞こえる。
まあ、今回はすんなり終わりそうだ。心を無にしてやり過ごそう。
「ん?」
「あれ?」
あれ?
とか、手術中聞きたくないキーワードNo.1なんですけど。
「止まらないな」
なにが?
ロマンティックが?
「あの、◯◯さん。今ポートを埋め込んだんですが、目的の血管のすぐ近くに動脈があって、かすってしまったみたいなんです。今血を止める作業をしています。ポートは埋め込めたんですが、このままだと血管がダメになってしまう可能性が高いので、大変申し訳ないんですが左側でやり直しします」
はい、やっぱり何か起こった。
ほらね、すんなり行かないんだよね。
ぐいーーーーっと右胸を先生が押している。
「こういうのはめったにないんですけどね」
二の腕のカテーテルのときも、背中の硬膜外麻酔のときも、どうも僕の血管や骨は先生達の想定の外をいくらしい。
右胸を押されながら、もう一人の先生が左胸へ麻酔イン。
右の穴にイレウス管入れながら、左の穴に胃カメラ入れて鼻が満員になったのを思い出す。あの時は麻酔などなかったが。
プスっ。ずーーーん。
カチャカチャ。
カチャカチャ。
ぐいーーーーっ。
「まだ止まらないな」
カチャカチャ。
色々丸聞こえ。
「よし、止まってきた」
「じゃあ塞ぎますね」
「こっちももう終わる」
局所麻酔。もうあんまやりたくないな。
仕切り直しの左胸はすんなり終わったらしい。
「はい、お疲れ様でした。ごめんなさいね、2倍かかってしまって。疲れたでしょう」
助手の看護師さんが僕の体を起こしながら言う。
こちらこそすいませんね。めんどくさい体で。
余計な穴1個空いちゃったのはまあ、仕方ない。
別に普通に歩けるが、帰りは車椅子に乗せられて病室へ帰った。
やれやれだぜ。
-53- ちょっと手術しに行こうぜ。
【ポート】
血管内に薬剤を注入するための医療機器。
完全に皮膚の下に埋め込まれ、その部分が少し体表上に盛り上がるだけで、基本的には普段通りの日常生活を送ることができる。
「じゃあ、1時半から手術なのでよろしくお願いしますね」
入院手続きも終わって着替えてベッドでやれやれと寛いでいたら、あと1時間後ぐらいに手術だと告げられる。
ちょっと飯食いに行こうぜ的な気軽さで手術。
ポート埋め込みの手術は、手術といってもいわゆる小手術といわれる規模で、開腹手術のようなあの物々しい部屋でやるのではないらしい。
看護師さんに付き添われ、病室から移動。
外来のある階にその部屋はある。周りは人が多くて緊張感は何もない。
「はい、ここですね」
通された部屋はやっぱり十分物々しい。
どうも僕は今までの経験上、こういう時なかなかすんなりいかないことが多い。
何事もなく終わりますように。
-52- おじいさんズ。
久々の入院。
まあ、マズイ状況になって緊急入院とかいうわけでないので、気は楽。
差額ベッドがかからない部屋を全力希望したが、残念ながら1日5600円かかる眺望抜群のベッドに。
くそう。いい眺めだ。
部屋は四人部屋。
例によって基本的にカーテンが閉まってるので、声でしか様子はわからない。
いや、別にわかりたくはないのだけど、声駄々漏れなのでわかってしまう。
隣のおじいさんは、看護師さんに体重を聞かれ、計る前にトイレ行ってたらあと2キロは少ないはずだと主張するも、看護師さんに冷静に、それはないと否定されていた。
はす向かいのおじいさんは、先生にどのくらいご飯を食べられたか尋ねられ、半分は食べたと主張するも、間髪いれずに看護師さんに4分の1ぐらいでしょと訂正されていた。
向かいのおじいさんは、一晩中小声で独り言を言い、見えない何かと何かについて相談し、時々ナースコールを押して看護師さんにも何か相談して少々困惑させていた。
基本的にやはりおじいさん率が高い。
さて、入院初日に早速ポートを埋め込む処置を行う。
何事もなければいいんだけども。
-51- 隣り合わせ。
早くも6クール目が終わろうとしていた。
2度目のCT検査。
CTの結果は毎回ハラハラする。もしがんが大きくなってたら………。
「前回と大きさ変わりないですね。よく抑えられてます」
ああ、よかったです。
「ただし…」
「肝臓に転移してます」
え。
「実は手術直後のCTから注目はしてたんですが、がんに成長してます。薬で抑えられてるので直ちにどうということはないです。手術前の検査でリンパ節には転移してないことは確認しているし、手術でリンパ節は根こそぎ取ってるので、これは腹膜のと同じく小腸から手術前に少しずつ侵食していったやつですね」
そういえば、執刀してくれた先生の説明で、小腸から点々と上へがんが進んでいっていると聞いた。目に見えるものは全て取ったが、細胞レベルでこの先へ進んでいる可能性はある、と。
これはやっぱり腹膜のと同じく手術では取れないんでしょうか。
「そうですね。結局手術してもまたできてしまう可能性がある。手術はそう何度もできるものでないので、腹膜と同じく薬で体全体を抑えていく治療になります」
さすがのステージ4。油断なんてとんでもない。生きるか死ぬか、隣り合わせだ。
そう、覚悟しておくことを改めて思った。
「ちょうど薬切り替えの時期になるし、ゼローダの副作用もキツそうだし、薬を変えます」
「ゼロックス療法から、ホルフォックス療法というのに変えます」
「オキサリプラチンは引き続き投与します。ゼローダをフルオロウラシル(通称5-FU)という薬に変えます。併せてアバスチンも入れますが、今痔がキツそうなのでしばらくアバスチンは止めましょう。アバスチンは痔に悪い効果があるから」
「5-FUは、ポートという器具を使って投与します。投与に46時間かかるから、病院で針を刺して自宅で抜くようにしてもらいます。今度、ポートを埋め込む手術をするために4、5日入院してもらいたいんですけども」
「ゼローダは2週間かけるから副作用も長く続いちゃうんだけど、5-FUは2日で入れるからその分副作用の負担もゼローダよりいくらか楽になるはず」
46時間?!
手術?!
何だか急展開だけど、生きるためならやりますやります。
4、5日か。仕事のリスケが面倒だな…。
まあしゃあない。
入院か…。
久々にゆっくりするか。
-50- 限界ギリギリ。
【小腸がん】
小腸腺がんは全悪性腫瘍のうちの0.5%以下、全消化管悪性腫瘍のうちでも5%以下。欧米諸国における小腸腺がんの年間発症率は0.22人/10万人から0.57人/10万人と極めて稀な腫瘍であり、希少がん(年間発症率:6人未満/10万人)に該当する。
そんなわけで、小腸がんに専用の抗がん剤は存在しない。
僕の場合、大腸がんの抗がん剤で代用している状況。ただでさえ個人差のある治療効果、代用ならなおさらやってみないとわからない部分が多い。
吐き気と下痢がちょっとキツくて…。
外来で主治医の先生に思わず言った。
「それはそうでしょう。限界ギリギリの量入れてますから。」
あ、そうなんですね?
「でも今回の3クール目のCTで見て、大きさは変わらないか少し小さくなってるから、効果はちゃんと出てます。これなら少し薬の量減らしても大丈夫ですね。副作用キツそうだから、少しゼローダ減らしましょう。1回6錠から5錠にしましょう」
若いからいける、の理由でギリギリを攻めていた。
ま、最初に下手に手加減していきなりがんが大きくなったら元も子もない。限界を見極められるこの先生はやはりデキる。
まあ、1回5錠にしたところで2週間で140錠。
まだまだスナック感覚は否めない。2週間で140個も、ピーナッツすら食わんわ。
まだまだ大魔王の高笑いが聞こえる。
-49- がん患者は働かなくていい。
がん治療にはお金がかかる。
僕の場合、健康保険と高額医療費使っても、月6万円は避けられない。
年間72万円。突然年収が72万円下がったようなもんだ。それと、残業しにくいなどで働ける時間も少なくなるから、現実に年収は下がる。
がん患者は働かなくていいんだよ、と暴言を吐いて問題になった政治家がいたけど、がん患者は働かなくてはいけないのだ。
がんであることを会社に言わない人も多いという。言ったら閑職に追いやられるか、酷ければクビになると。
僕の場合は、会社に全部言った。
幸いにして、ウチの社長は超人情家。涙を浮かべて、仕事のことは何も心配しなくていいと言ってくれた。
ウチは社員150人程のワンマン経営中小企業。社長の僕への「いのちだいじに」コマンドが下されたからには、全社をあげて僕を何かと労ってくれる。
発病前は馬車馬のように働かされる正直、色的にアレな色の会社なのかな?と思っていたが、今、つくづくいい会社に入っていたんだと実感している。
だがしかし現実はそう甘くない。
復帰直後は副作用の体と仕事の疲労になかなか対応できず、かなり欠勤してしまった。有休は通院時に使うので、残り少ない有休を節約するために欠勤にせざるを得ないのだけど、欠勤という名の給料激削りマシーンには戦慄するしかなかった。要はズル休みと同じだから、基本給職能給はもとより、あらゆる手当が日割りで削られる。役職手当、住宅手当、通勤手当や家族手当まで削られる。そこから社会保険(標準報酬額で計算してるので給与が減ったことなどお構いなしの容赦ない金額)、所得税、住民税(前年の給与で決まるので容赦ない金額)が引かれ、見るも無惨な手取り金額が残る。
家賃と光熱費と医療費と生活費を払わなければいけない。
どう考えても赤字。
がん特約と通院治療の保険に入っていなかったツケがこれから一生毎月のしかかる。
がんで死ぬ前に医療費に殺される。
打開策はただひとつ。
休まず仕事して、残業しっかりして稼ぐこと。
副作用がキツイ?
知ったことかっ!
パパ、がんばるよっ。
-48- ボーリングの玉。
【悪心(おしん)】
吐き気,嘔気ともいい,今にも嘔吐しそうな不快な感覚をいう。嘔吐に先行することが多い。悪心・嘔吐は嘔吐中枢を刺激されることによってひきおこされる。とくに悪心は,嘔吐反射発生の閾値に達しない程度の弱い刺激によって発生するものと考えられている。
副作用に耐えられず、標準治療を止めてしまう人も多いという。
副作用がキツイと言っても、実際どんなもんなの?と思う人はいると思う。
だけど、
「ねえねえ、副作用ってどんな感じなの〜?教えてよねえねえ」
とはなかなか聞けないと思う。
もちろん個人差があるのだけど、僕の場合をあえて言葉にするとこんな感じ。
吐き気:
胃と喉あたりにボーリングの玉が入っていて、グルグル回っている。口の中が唾液の味でいっぱいになる。しゃっくりがなぜか一発だけ出る。そのしゃっくりの後味が最悪。
布団で安静にしていられるならいいのだけど。仕事しながら、特にお客さんと長時間面談しているときはさすがにキツイ。それと、通勤電車。僕の朝の通勤電車は日本でトップの混雑率で、体は平気で浮くし乗客同士のケンカも微笑ましい朝の風物詩。見た目は健康そのものの僕は、為す術なく今日も人波に揉まれる。
下痢:
文字通り、下痢。それ以上でもそれ以下でもないが、何事もない平和なトイレってどんなだっけ?と忘れてしまうぐらい果てしなく下痢が続く。
敢えて言おう。トイレは戦場だ。
ピーク時は30分に1回はトイレに行く。仕事にならん。薬で多少抑えられるが、やっぱり基本的にゆるく、為す術なく今日もトイレに引き籠る。
痔:
抗がん剤の副作用の下痢の副産物。生まれて初めて痔になった。正直、痔が一番ツラい。座り仕事の多い僕には特に地獄。吐き気+痔のコンボだけで仕事のモチベーションなど木っ端微塵だ。下痢が治まらないので治る隙がなく、為す術なく今日もトイレで涙を流す。
神経障害:
冷たいものに触ったり飲んだりすると電気が走ったように痺れる。電車の中で手すりに掴まれない。抗がん剤始める前まで、もう一生アイスクリームが食えないし、温泉で冷たいコーヒー牛乳も飲めないんだと嘆いた。
けど痺れは点滴から1週間ぐらいで治まるので、アイスクリームは結局普通に食べられている。もう、先生ったら脅かすんだから。
いきなり熱が出たり頭痛がしたり手足が痺れたり、他にも細々あったりするけど、大きいのはこんな感じ。
期間限定ならいいんだけど、一生って言われると………
はぁ〜。
しょうがないんだけど。
はぁ〜〜〜。
-47- 大魔王。
3つ目の抗がん剤、ゼローダは飲み薬で。
1回6錠×朝夕×14日間=168錠
168錠。生まれてこのかたこんなに薬をスナック感覚で飲んだことはない。
抗がん剤の副作用は、本当に人と病状によりけりで色々出方が違うらしい。
自分の場合、大体こんな感じのようだ。
点滴投与当日:
オキサリプラチンの体の痺れ。
投与後1日目:
少し吐き気、体の痺れ。
2〜6日目:
オキサリとゼローダの往復ビンタの吐き気、ゼローダによる下痢。神経障害。
7〜14日目まで:
吐き気は弱まるが下痢がオーバードライブ。お尻の穴がメルトダウン。
14〜21日目:
口内炎で口の中が炎上。
幸いなことに、食事は普通に食べられるようだ。食べないと気持ち悪くなるし、食べた後も気持ち悪くなる。食べてる間だけ気持ち悪いのを忘れられる。
もうひとつ幸いなことに、脱毛は出ないようだ。
とにかくキツイのは、オキサリとゼローダのダブル吐き気と、ゼローダの下痢による痔。
最大の敵はゼローダ。
そういえば名前も悪役っぽい。
大魔王ゼローダ。
今日も大魔王の笑い声が聞こえる。
-46- 大怪獣。
まずは抗がん剤を打った後の過ごし方についての説明を改めて受ける。
吐き気や下痢や皮膚の異常が出たときに対処する薬がそれぞれあるが、完璧に抑えられるものではない。神経障害の痺れはそもそも抑えられないし。やはり基本的に「耐える」ことが必要。なるべく安静に、とは言われても…仕事はしないと。どうしてもヤバいと思ったらいつでも病院に連絡を、と。
リクライニングの椅子か、ベッドを選べる。
混んでたので強制的にベッドへ。
ベッド、小さくて足が伸ばせない…。
さてはデカい若いヤツが来ること想定してないな。
まあいいや。
「ちょっとチクッとしますねー」
採血のより長い針を血管の奥にプスッとね。
まずはアバスチンから。
アバスチンは副作用の少ない抗がん剤。時間も短いし、いけるいける。本当はいきたくないけど。
問題はオキサリプラチン。
同じ語尾チンでもコイツはじゃじゃ馬。
看護師さんが電機アンカを腕の下に敷き、上からタオルを掛ける。オキサリプラチンはほぼ確実に痺れが出る。暖めると痺れが緩和するらしい。
そして2時間の長丁場。
処置室は無料wifiもあるし充電も可。寝ててもいいし本読んでてもいいし軽食食べてもいい。
快適じゃないか。
とは、いかなかった。
オキサリプラチン点滴開始から10分後ぐらい。
あー…。なんか、痺れてきたなぁ。確かに暖めてるのが効いてる感じ。
おお、なんかすごい痺れてきた。
あれ?これもしかして痛いぐらい痺れてる?
腕全体が、そこにないような感覚。
これ、全然快適じゃないや。甘かった。
まあ、痺れてるだけで実際ケガとかしてるわけじゃないし。
我慢しましょう。生きたいなら。
2時間後。点滴終了。
やべ。腕超痛い。
体の中でオキサリプラチン大暴れ。そういえば名前も怪獣っぽい。大怪獣オキサリプラチン。がん細胞ごと正常な細胞も踏み潰すダークヒーロー。
針抜いて、お疲れ様でした〜。
問題の、お会計。
8万円。
ああ、やっぱり本当に8万円なのね。
この後薬局で、もう2万円。
腕も痛いが、お財布はもっと痛かった。
-45- いよいよ。
点滴は2種類。
アバスチンは15分、オキサリプラチンは2時間、投与するのに時間がかかる。
先生の診察を終えてから点滴するのだが、薬剤を調合するのに1〜2時間かかる。
診察の前に採血するので、診察の30分〜1時間前には病院に着いていたい。
診察は大体押しまくるので、30分〜1時間は待合室で待つ。
飲み薬のゼローダをもらうため薬局で20分は待つ。
まあ、要は1日がかりだということ。
久しぶりの採血。
「ちょっとチクッとしますねー」
採血で文句なく痛かったのは、手術前にやった動脈からの採血注射だったなぁ。
「いつもの静脈じゃないので、ちょーーっと痛いですよ」
先生が陽気に脅す。
いつもの腕からでなく、手首に注射。
あれだ、リストカットする場所だ。
プスッ。
ッギクッーーー!
手首から先が取れたかと思う衝撃。
静脈と違って、動脈周りは神経が集中しているのでアレなんだとか。
動脈採血だけは2度とやりたくないなぁ。
あと、イレウス管ね。
診察室。
「じゃあ、いよいよ今日からやっていきましょう」
はい。やらないと死んじゃうならやるしかない。
点滴を打つ場所に移動。
「1時間後ぐらいにお呼びできると思うので、それまで外出とかしてていいですよ」
実は病院のある街は有名なグルメスポット。
入院中は外出できなかったから、ちょっとワクワクしながら何食べようかウロウロ。
この時間じゃ、ほとんど閉まってるじゃん…。
結局牛丼屋へ。
この食欲が、数時間後どうなっているのやら。
-44- 時代劇でよくある。
【高額療養費制度】
同じ月に同じ医療機関で支払った医療費の自己負担額が一定額を超えた場合、その分が払い戻される制度。例えばサラリーマンの場合、かかった医療費の3割が自己負担だが、この制度により負担の上限が設けられる。自己負担の限度額は、一般所得者は、8万100円+総医療費が26万7000円を超えた部分の1%。
時代劇でよくある風景。
薬が高くておっ母の病気を治せない。
現代の日本ではあり得ない風景、と思っていた。
3週間に1度、点滴でアバスチンとオキサリプラチンを投薬。2週間朝夕1日2回、飲み薬でゼローダを投薬。
これを1回として、1回あたりのお値段。
31万円。
ふんふん、と説明を聞いていたが、内心目玉が飛び出るほどビックリしていた。
安心して下さい。健康保険が効きますから。
そうでしょうそうでしょう。
15万円。
ほうほう、半額になるんですね。これはお得だぁ。
…ってまだ高すぎるわっ。
大丈夫です。高額療養費制度が使えますから。
本当に大丈夫なんでしょうか。
8万円。
う、うーーーん。
だいぶ安くはなったけど、まだ高い…。
もう一声っ。
…もう一声はなかった。
と、思ったら後から病院の相談センターで聞いた。
高額療養費は限度額の8万円が3ヶ月続くと、翌月から4万円になるという。ただし、1医療機関につき4万円。点滴は病院、飲み薬は薬局でもらう。病院で限度額の4万円、薬局で2万円払うのだが、結局1回の投薬で6万円かかる。もしタイミングで月2回投薬するとお得になる。
医療保険には入っていたけど、入院と手術だけ。通院やがん特約はつけていなかった。
これから一生続ける抗がん剤治療は、全て自費でやるしかない。
これ、月6万円いきなり負担が増えたら、人によって生活崩壊するでしょ。ウチだって月6万円は致命的な金額。まして、今まで通りに働ける保証は何もない。
がん特約つけてなかったからいけないんだと言われればそれまでだけど、たまたまつけてなかっただけでこうなるのって、何とかならないのだろうか。
日本人の2人に1人ががんになるんでしょ?
抗がん剤の価格自体を下げようという動きにはならないの?
お金がなくて治療できなくて死ぬ人もいるのでは?生活保護受ければいいと言う人もいるけど、確かに高齢者ならいい。30代で生活保護になって、その後どんな人生を送ればいい?
抗がん剤治療について話題になるのは、標準治療ではないさらに高額な先進医療を受ける人についてだけ。
そもそも標準治療すら受けるお金がない人についてのニュースは、皆無。
なぜだろう?
一通りの説明を受けて、僕らは診察室を後にした。
1週間後、初めての投薬をすることになった。
-43- 仕方ない。
【副作用】
病気を治したり症状を軽くしたりする、薬本来の目的の働きのことを「主作用」と言う。薬本来の目的以外の好ましくない働きのことを「副作用」と言う。
抗がん剤といえば、副作用。
がんを患っていない人でも、皆知っている。僕も知っていた。
なぜ抗がん剤は副作用がそんなに有名な程激しいのか。
がん細胞を殺そうとする余り、うっかり正常な細胞も一緒に殺しちゃうじゃじゃ馬だから。
敵ごと街に核爆弾落とす、ハリウッドのSFでよくあるヤツ。
その展開って、まず間違いなく肝心の敵は倒せてないことはここでは黙っていることにしよう。
ゼロックス療法の副作用を先生が説明する。
紙に既にまとめてあるもので詳しく説明を受ける。
「吐気、嘔吐、食欲不振」
うん、これはもう確実に出る。覚悟しなきゃダメっぽいね。
「下痢」
仕事に支障が出そう。お客さん対応中に耐えられるだろうか。
「神経障害」
何それ名前がコワイ。冷たいモノを触ったり飲んだりすると痺れるって。もうアイスとか食べられないのか…………。
「脱毛」
これは精神的にキツイな。20%の人がなるらしい。もしなったら先回りしてカッコいい坊主にするしかない。
「手足の痺れ、変色など」
北斗晶のブログで写真見たことがある。黒くなって皮が剥けてきちゃうやつ。痺れも酷くなるとペンが持てなくなったりキーボードが打てなくなる。仕事に支障が…。
「口内炎」
地味にイヤだな。
「死亡」
えっ。
ごく稀で1%以下だという。
あれ?
でも、小腸がんって1%じゃなかったっけ?
あれ?
まあ、どんなに副作用の説明を受けようと、この先実際どんな副作用が出ようと、
「生きるためなら仕方ないんだなぁ。」
をスローガンにやっていくしかない。
一生。
息子はまた目を閉じて、難しい顔をして寝ていた。
-42- 舌噛みそう。
「小腸がんには、専用の抗がん剤がありません。胃がんか大腸がんの薬で代用することが一般的です。データは少ないですが、比較的大腸がん用の方が小腸がんには効きやすいという結果が出てます。回腸のがんなので大腸に近いというのもあるし。」
先生が紙とペンを出す。
抗がん剤の名前をたくさん列挙する。
その横に大腸がんと書き、さらに横に小腸がんと書く。
◎…よく効く
◯…まあまあ効く
△…あまり効かない
×…ほぼ効かない
2つのがんの下に、薬の種類毎に書いていく。
なんとまぁ。
小腸がんの◎の少ないこと。
「抗がん剤は組み合わせで治療していくので、必ずしも単独での効き目ががんへの効果をそのまま表しているわけではないですが。」
先生は一つ一つの薬の内容を説明し、今回使う薬の組み合せを言った。
「抗がん剤治療ではとても一般的な、いわゆるゼロックス療法というものを使おうと思っています。」
カペシタビン…商品名ゼローダ
オキサリプラチン…商品名エルプラット
ベバシズマブ…商品名アバスチン
なんだろう、世界史の名前みたいだ。
みたいな。
アバスチン・カペシタビン・オキサリプラチン
みたいな。
ベバシズマブ、ってすっごい言いにくい。
息子は目を開けてキョロキョロしていた。