-56- 食べるということ。
【胃瘻(いろう)】
腹壁を切開して胃内に管を通し、食物や水分や医薬品を流入させ投与するための処置。最近では人工的水分栄養補給法と呼ばれる。
1日5600円の差額ベッド代のかかる眺望抜群のベッド。
正直、眺望はどうでもよい。5600円あったら毎日焼き肉が食える。
退院1日前、差額ベッドのかからない部屋に移動させてくれた。1日だけでも、ありがたい。
移動した先の部屋は、二人部屋。
お隣のベッドはやはりおじいさんだったが、前の4人部屋のときの陽気なおじいさんズとはどうも様子が違う。
おじいさんはごく最近手術をしたらしい。
奥さんとおぼしき人が面会時間の間ずっと付いていた。
夫婦の会話がカーテン越しに聞こえてくる。
おじいさんの、奥さんに対する当たりが強い。というか、明らかに喧嘩腰だ。
「うるせえよ、バカ!そんぐらい分かれよ、バカ野郎!」
「そんな風に大声で言わなくたって……」
「俺はそれどころじゃねえんだよ!」
明らかにおじいさんはイライラしていた。
普段からそんな感じなのかどうかはわからないけど、イライラしている理由は先生がベッドに来た時の会話でわかった。
胃瘻の手術をしたのだ。
期間限定なのか無期限なのかは定かでないけど、話の内容から、たぶん無期限だ。
僕はがんになって、正確には腸閉塞になって、生まれて初めて「何も食べられない、何も飲めない」ことを経験した。
生き物として、これほど辛いことがあろうか。
当然病院にいれば点滴で栄養は摂るので死ぬことはないけど、食べ物を食べられなくて餓死する苦しみとはどれ程のものか。その片鱗を味わった。
ただ、僕達は生き物といえど、人間だ。ただ栄養を摂ればいい植物とは違う。
僕が1か月半絶飲食だったとき、ひたすら料理の写真と動画を貪り見ていた時期があった。
食べられるようになったらコレ食べよう、アレ食べに行こう。それだけが心の支え。
胃瘻をお腹に取り付ける。
もう口から料理を食べることができない
料理を口から食べられないのは、何も食べられないのと同じくらい辛いだろう。意識が元気なら、なおさらだ。
奥さんだけでなく、看護師さんにもキツく当たるおじいさんの声は、少し涙声に聞こえてきた。